聖徳太子にゆかりのお寺

百済山長永寺は、仏教伝来のお寺として、地元住民だけではなく、多くの人に親しまれているお寺として知られています。
開基は聖徳太子として言われており、飛鳥時代に、推古天皇や蘇我馬子が建立に深くかかわった、または、建立をしたとして知られています。

近鉄奈良線”河内永和”駅から歩いて200メートル前後の所にありますので、アクセスの便も非常によく、車を利用することが出来る点も特徴です。
駐車場には限りがありますので、出来れば電車を利用していくことをおすすめします。

長栄寺で行われるペット供養について

そんな長栄寺ですが、お寺の特徴として、ペット供養を行っている点が挙げられます。
大切な家族の一員として、人間と同じようにしっかりと供養をしたいと考える飼い主さんは多く、長栄寺のように、しっかりとしたお寺でペットの供養をしたいと考えている方は珍しくありません。
ペットの供養の内容としては、納骨などをはじめ、供養をしてくれるのみのプランも用意がされていますので、ご家庭の状況に合わせて選択をされると良いでしょう。

納骨費なども強制ではなく、あくまでお気持ちというスタンスを取られているそうですが、こうした費用は一部動物愛護団体へ寄付をされているそうです。
自分のペットを供養するために納めた納骨費が、今度は他の動物たちの命を救うきっかけとなる可能性があることを考えると、出来る限りおさめた方が良いのではないかと思います。
大事な家族が死んでしまったからこそ、きちんと供養をして、安らかに眠ってほしいものですね。

また、長栄寺では毎年春に、合同慰霊祭、夏には七夕まつりが行われています。
それぞれの季節でペットの供養をすることが出来ると言えますので、必要に応じて参加をすることが出来る点も特徴だといえるでしょう。

以前ここを利用したことがあります

私がまだ小さいころ、雑種の犬を飼っていたんですけど、先日寿命で亡くなってしまって。
病気でしたのである程度覚悟をしていたのですが、本当に辛い思いをしました。

本当に大事な家族でしたので、せめて安らかに天国に行ってほしいと思い、ペット供養を出来る場所を探したのですが…。
ただ火葬をするだけという所はあるものの、供養となるとなかなかなくて、色々と時間をかけて探した結果見つけたのが、長栄寺でした。

長栄寺のお坊さんは本当に丁寧に接してくださって、こちらの心も救われたような気持でした。
しっかりと供養してくださったおかげで、今では家族も少しずつ元気を取り戻しています。
大事な家族の最後だからこそ、長栄寺のようにしっかりと、火葬だけではなく供養をしてくれるような場所に依頼をすることが出来て良かったと思っています。

田辺聖子の資料や原稿などが展示

田辺聖子文学館は、田辺聖子女史の文学的偉業をたたえる目的で設立された文学館で、田辺聖子氏の文学作品をはじめ、田辺氏の歴史、田辺氏に関する貴重な資料、当時の原稿や思い出の品々を見ることが出来ることで知られている文学館として知られています。
地下鉄奈良線の河内小阪駅から徒歩五分という、非常にアクセスに恵まれた地域として知られており、通うような方も中にはいるといわれています。

文学館自体は大阪樟蔭女子大学の図書館内にありますので、利用の際には学内に入る必要がありますので、必要に応じて申請などを行う必要があるでしょう。
入館料は無料で、休刊日は、日曜祝日、大学の休業日を除き、平日は9時から17時まで、土曜日は9時から16時まで開館しています。
また、駐車場が学内にないそうですので、利用の際には電車利用がベストです。

田辺聖子とはどんな人?

1928年の3月27日に、大阪市此花区(現在の福島区)に、田辺氏は生まれました。
その後すくすくと成長した田辺氏は、現在の淀之水高等学校に入学。このころから、文学に興味を持ち始め、「少女の友」を愛読しながら、絵画部にて様々な活動を行っていきます。

その後現在の大阪樟蔭女子大学の国文科に入学し、短歌クラブに所属しながら、様々な文学作品を作成していきます。
動員令によって航空機製作所の工場内で働き、動員解除後は、学校工場で働き、ボタンホールかがりをしていました。

そうして1947年、様々な苦労を乗り越えて、無事に学校を卒業し、大阪の金物問屋で働き始めます。
働きながら同人誌、「文藝首都」の会員となって、原稿を送り始め、本格的に文革活動に専念をしはじめ、1952年には、作品「診察室にて」が、文章倶楽部の読者文芸小説入選第1席として掲載されました。

その後、金物問屋を正式に退社し、「日本書紀」や」「古事記」に没頭。
1955年には大阪文芸学校へ通いはじめ、足立巻一市の指導のもと、生活記録として「私の生い立ち」を執筆します。

翌年には積極的に小説の執筆を行い、「花狩」「虹」で、様々な文学賞を受賞。
1957年には、大阪文芸学校を卒業する運びとなりました。

その後も、「陛下と豆の木」「神々のしっぽ」「感傷旅行(センチメンタル・ジャーニィ)」など、現在でも有名な著書を数々執筆し続け精力的に文学活動に関わり続けてきました。
そして、2009年には、日本放送文化賞を受賞、伊丹市名誉市民となり、現在でも、多くの人に愛されています。

代表作は?

代表作としては、やはり芥川賞を受賞した「感傷旅行(センチメンタル・ジャーニィ)」や、吉川栄治文学賞を受賞した「ひねくれ一茶」、4つもの賞を受賞した「道頓堀の雨に別れて以来なり」が挙げられます。
もちろん他にも、様々な文学作品を発行されていますので、ぜひとも一度読んでみてはいかがでしょうか?